詩編
103:1 わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。
103:2 わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。
103:3 主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、
103:4 あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、
103:5 あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。
103:6 主はすべてしえたげられる者のために正義と公正とを行われる。
103:7 主はおのれの道をモーセに知らせ、おのれのしわざをイスラエルの人々に知らせられた。
103:8 主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。
103:9 主は常に責めることをせず、また、とこしえに怒りをいだかれない。
103:10 主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、われらの不義にしたがって報いられない。
ルカによる福音書
5:17
ある日のこと、イエスが教えておられると、ガリラヤやユダヤの方々の村から、またエルサレムからきたパリサイ人や律法学者たちが、そこにすわっていた。主の力が働いて、イエスは人々をいやされた。
5:18
その時、ある人々が、ひとりの中風をわずらっている人を床にのせたまま連れてきて、家の中に運び入れ、イエスの前に置こうとした。
5:19
ところが、群衆のためにどうしても運び入れる方法がなかったので、屋根にのぼり、瓦をはいで、病人を床ごと群衆のまん中につりおろして、イエスの前においた。
5:20
イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。
5:21
すると律法学者とパリサイ人たちとは、「神を汚すことを言うこの人は、いったい、何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」と言って論じはじめた。
5:22
イエスは彼らの論議を見ぬいて、「あなたがたは心の中で何を論じているのか。
5:23
あなたの罪はゆるされたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらがたやすいか。
5:24
しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに対して言い、中風の者にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われた。
5:25
すると病人は即座にみんなの前で起きあがり、寝ていた床を取りあげて、神をあがめながら家に帰って行った。
5:26
みんなの者は驚嘆してしまった。そして神をあがめ、おそれに満たされて、「きょうは驚くべきことを見た」と言った。
神が分からなくなったと感じる時に、心の光となり、再び神との繋がりを求めるきっかけとなるような聖書の一節をいくつかご紹介します。
* **エレミヤ書 29章13節:**
> あなたたちはわたしを呼び求め、来てわたしに祈るならば、わたしはあなたたちの言うことを聞く。あなたたちはわたしを捜し求め、見いだすであろう。心を尽くしてわたしを求めるならば。
この箇所は、私たちが神を求めれば、必ず見いだすことができると約束しています。心が神から遠く感じられる時こそ、改めて神を求めることの大切さを教えてくれます。
* **ホセア書 6章3節:**
> それゆえ、わたしたちは主を知ろう。努めて主を知ろう。主は暁のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、地を潤す春の雨のように、わたしたちに来られる。
この箇所は、神を知るためには努力が必要であることを示唆しています。そして、神は必ず現れてくださるという希望を与えてくれます。
* **ヨハネの福音書 14章8-9節:**
> フィリポはイエスに言った。「主よ、わたしたちに父をお示しください。そうすれば満足します。」イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長く一緒にいるのに、あなたがわたしを知らないとは。わたしを見た者は、父を見たのだ。どうして、『父をお示しください』と言うのか。」
この箇所は、イエス・キリストを通して父なる神を知ることができると語っています。神が分からなくなったと感じる時、イエス・キリストの言葉や行いを改めて見つめることが、神を知る手がかりとなるかもしれません。
* **ローマの信徒への手紙 1章20節:**
> 神の、目に見えない本性、すなわち永遠の力と神性は、天地創造以来、被造物を通して理解できるのです。それゆえ、彼らには弁解の余地がありません。
この箇所は、自然界を通して神の存在や性質を理解することができると示唆しています。神が遠く感じられる時、自然の中に神の御業を見出すことも、神を再び感じる一つの道かもしれません。
これらの聖句が、あなたが神について迷いを感じる時に、少しでも光となり、再び神との繋がりを深める助けとなることを願っています。