マタイ 8-26
8:26 するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。
それから起きあがって、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。
ヘブライ手紙 11の1-40
第 11 章
1 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
2 昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。
3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
4 信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。
5 信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。
6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。
7 信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。
8 信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。
9 信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。
10 彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。
11 信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。
12 このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。
13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
14 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。
15 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。
16 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。17 信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。
18 この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。
19 彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。
20 信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。
21 信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。
22 信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。
23 信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。
24 信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、
25 罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、
26 キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。
27 信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。
28 信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。
29 信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。
30 信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。
31 信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。
32 このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。
33 彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、
34 火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。
35 女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。
36 なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。
37 あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、
38 (この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。
39 さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。
40 神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。
疑念が生じた時に、心の迷いを払い、信仰を再び見つめ直す助けとなる聖書の一節をいくつかご紹介します。
* **マルコによる福音書 9章23-24節:**
> イエスは言われた。「『できるなら』と言うか。信じる者には、何でもできる。」すぐにその子の父親は叫んで言った。「信じます。どうか不信仰なわたしをお助けください。」
この箇所は、疑いを抱えながらも、イエスに助けを求めた父親の言葉です。信仰が揺らぐ時でも、正直にその気持ちを神に伝え、助けを求めることの大切さを教えてくれます。「信じる者には何でもできる」というイエスの言葉は、信仰の力を示しています。
* **ヨハネの福音書 20章24-29節**(トマスへの顕現):
この箇所は、復活のイエスを疑ったトマスが、実際にイエスと出会い、信じるようになる物語です。疑うことは人間的な弱さでありながら、最終的には信仰へと導かれる可能性を示唆しています。特にイエスの言葉に注目してください。
* 27節: 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
* 29節: 「あなたはわたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人々は、幸いである。」
* **ヘブライ人への手紙 11章1節:**
> 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することです。
信仰の本質を定義するこの箇所は、必ずしも目に見える証拠がない中でも、希望を持つこと、確信することであると教えてくれます。疑念が生じた時に、信仰の本来の姿を思い起こさせてくれます。
* **ローマの信徒への手紙 4章20-21節:**
> アブラハムは、神の約束について不信仰の念を抱いて疑うことなく、信仰によって強められ、神に栄光を帰し、神が約束されたことは必ず実現すると確信していました。
信仰の模範であるアブラハムの姿を通して、疑念に負けず、神の約束を信じ抜くことの大切さを教えてくれます。
これらの聖句が、あなたが疑念に悩む時に、信仰を見つめ直し、再び信じる力を得る助けとなることを願っています。